トランキライザー

その日は山猫の頼みで、とある会合に代理で出席した帰りだった。

 

いつも通りに店へゆき、酒と食事を頼んだ。

けれど喉を通らない。

どんどんと具合が悪くなってゆく。

結局、頼んだ食事を食べきれず、帰宅した。

 

理由はよくわからない。

疲れていたのかもしれない。

それ以外に心当たりがあるとするなら、会合の内容と、知らない人ばかりが居る場所で緊張し、気疲れしすぎたぐらいだった。

 

山猫にLINEを送って、布団の中で鬱々としていた。

あしたは仕事なのに、眠れない。

会合の毒気にあてられたみたいだ。

 

深夜、店を終わらせた山猫が心配して家に来てくれた。

自分もくたくただろうに、私のために無理をしてくれたのだ。

来た途端、何も言わずにただ抱き締めてくれた。

「何も言わなくていい。これだけで、おまえがどれだけくたくたで無理してきたかわかるよ」

 

なんだかもう、それだけでよかった。

半分魂が抜けたみたいに頭がぼんやりしていたけれど、何もかもが報われたような気がした。

 

山猫は体温が低いから、抱き合うといつも、少しひんやりしている。

でもその日はすごくあたたかくて、ああ、守られているなあと思った。

 

守られたくて、慈しんでいたわってほしくて、でも誰にもそれを言えないでいて、独りで薬と剃刀をトランキライザー代わりにがたがたと震えていた夜がやっと、やっと明けたような気持ちになれた。

 

いつもさみしくてうつろだったものを、彼だけが充たしてくれる。

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さくら

ふたりでお花見をしたいという話をしていた。

染井吉野でも、山桜でも、枝垂れでも、八重桜でもいい。

桜並木の下を、彼の運転する車で通過するだけでもいい。

お花見をしたい、と、お願いをしていた。

彼はいいよ、と言ってくれていたけれど、頼みながらも、半分はきっと叶わないだろうと思っていた。

 

二人の間で、本来なら約束はできない。しようがない。

時たま交わされる約束は叶わないこと前提で、叶ったとしてもそれがいつになるか分からない代物で、約束とは重みがあり硬いはずのものなのに、私たちの間ではとても曖昧で悲しくて、脆い、けれども美しい、約束によく似た「何か」にしかなれないのだった。

 

だからあるとき、たまたま、ひょんな形で叶ったことに私は驚いて、とても嬉しくなってしまったのだ。

 

それは、共通の知人の結婚式に参列した帰りだった。

式と披露宴を終え、彼の車で一緒に帰るために駐車場へゆく道すがらのことだ。

 

行きのときにはまるで気付かなかった、りっぱな桜並木が頭上にあった。

淡いピンク色のもや、いや、雲と言っても差し支えないような、見事な満開の桜並木だった。

花の重さに頭を垂れるように、桜は咲いていた。

生憎の曇り空だったけれど、灰白色の空と桜の花の色の組み合わせもなかなかに素敵だ。

「綺麗」

「ほんとに綺麗だね」

そう言いながら、ふたり、桜の下を歩いた。

奇しくもこうやって、お花見の約束が成就したのだった。

 

車の中は無音で、披露宴の帰り、近くにある二次会会場に向かう参列者たちがぽつぽつと歩いているのが見えた。

みんな、私たちになんか気付かず、気にもかけずにいる。

 

窓の外の景色全部が、映画のワンシーンみたいに遠かった。

 さっきまでいた、あの、これ以上なく幸せな式の場にいたのがまるで嘘みたいだ。

膜一枚隔てた、近くて遠い別世界のように。

 

憂鬱な曇天と淡い桜の、儚げな色彩のせいだろうか。

妙に孤独な気持ちになって、センチメンタルが過ぎて、少しだけ涙が出そうだった。

誰も辿り着けないどこか遠くへ行くんだと思った。

自分だけの幸せがある、きっとほかの人には理解されない荒野へ行き、自分のためだけの花を咲かせに。

誰も知らない、誰もいない場所に。

 

きっともう、戻れない。

ただきっと、そこには山猫がいる。

 

 

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山猫と肌を合わせているときに、汗をかいた。

もうこんな季節なんだなと思う。

 

セックスの最中に汗をかいたことはなかった。

山猫としているときだけだ。

そういえば、私の家で初めて繋がったとき、空調が壊れていて、悪夢みたいに暑くて、彼は部屋を真っ暗にして窓を開けたんだ。

 

夜なのに熱を孕んだ風が体に絡まって、互いの体温が夢の中の温度みたいに熱くて、自分たちの肌がオブラートで出来てたなら、この熱出溶けて混ざり合い、一つになれるのに、と思った。

夢中になって貪り合いながら、私たちはどんな結末を予想していたんだろう。

 

もうすぐに、彼と過ごす四回目の夏が来る。

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約束

私はひどく弱いけど、山猫のためなら強くなれるはずだと、一所懸命に自分を信じる努力。

 

何があってもどうか、彼のことを憎まずにいられますように。

死ぬ寸前、最後に目を閉じる瞬間に心から、「山猫と出逢えてよかった」と想えるように。

 

人の道をはずれた恋路だ。

せめて善悪や利害を超えて、彼のことを大切に慈しみ続けてゆくんだと、私は私に約束をする。

護られなくてもいいけど、護り続けてゆきたいんだ。

ただそれだけなんだ。

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